カイコ

 

 アパートの玄関のドアの外の、6cmほどの段差の部分に、カイコが一匹、繭を作ろうとしていた。珍しいので五分ほど、じっと見ていた。しかしそのカイコの吐く糸は丸い形にはならず、ただ吐き出されて堆積するばかりだった。このままここで糸を吐かれ続けても嫌だな、と思い、靴で隅の方に押しのけてやった。靴にカイコの体が当たったとき、ぽてっとした柔らかい重さを感じた。生き物の重さだ。ちょっと悪いことをしたな、と思って出勤した。

 帰ってみると、カイコはその日の朝に押しのけたままの場所で横たわっていた。近づいていくと、気がついたようにはっと上体をくねって起き上がらせ、また横たわった。まだ生きているのだ。こんなコンクリートの上で何も飲まず食わずで生きていたのだ。

 そしてその翌朝も、まだカイコは生きていた。わたしの革靴が、床に当たって音が出た瞬間に上体を起こす。ちょっと可愛らしくも思う。けれど餌をやろうなどとは思わない。わたしは虫にはさわれない。帰宅したときには、わたしの靴音がしても上体を起こさなかったが、わずかに体をぴくりと動かした。もうじき死ぬのだな、と思った。

 翌朝、やはりカイコは動かなかった。玄関の近くにあった枯葉のくずを、カイコの近くに靴で集めてやった。腹をすかせているだけかもしれないから。まあ、しかし水までやるような手間をかけるほどの親切心は働かなかった。月に一度ほどやってくる管理会社の人間が箒で掃いてチリトリに入れて捨ててくれるだろうと思った。

 が、その日、帰宅してみると、カイコは誰かに踏み潰されていた。正確には、踏み殺された痕跡が残っていた。おそらく同じアパートに住む子供がそうしたのだと思う。風が吹き込んだのか、枯葉のくずは無くなっていた。カイコの居たコンクリートの上には薄茶色のシミだけが残っていた。一見、そのシミだけを見れば、機械油か泥のようなものが垂れたあとのようだ。これから毎朝、そのシミをみるにつけ、ほんの少しだけの罪悪感...罪悪感というより、「ここはわたしが蹴って押しのけたカイコの死に場所だ」という認識がやってくる。でもそれもやがて忘れる。