『ニンフォマニアック』、タブーと孤独

 映画『ニンフォマニアック』を見た。ラース・フォン・トリアー監督といえば鬱、みたいな認識でいたけど、案の定深刻で、観るものに突きつけるような映画だった。ポルノまがいのアートとか、アート風味のポルノなどと揶揄されることもあるようだけど、わたしは性を扱ったのは一つの手段であって、性という側面を通して人間の本質を描いていると感じた。

 以下ネタバレあります。

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 ニンフォマニアック...色情狂と訳される。

 主人公のジョーは自らを色情狂と呼び、道で倒れているところで助けられた中年男のセリグマンに自らの人生(主に性にまつわるエピソード)を8章立てで語っていく。

 ジョーは幼少早くより性的な快楽に目覚め、浴室の床の上で「カエルごっこ」というマスターベーションをしたり、近所に住む男に「処女を奪ってと頼んだら迷惑?」などと言い寄ったりしたという。それぞれのエピソードは、誰しも一つは持って居そうな性の芽生えの出来事としてありそうなものだ。しかし、畳み掛けるように飛び出るエピソードの数々に、どうやら並大抵の人生でないことがうかがわれてくる。

 セリグマンは博識な童貞(...博識な童貞ってことば、なかなか素敵だな)で、彼女の話に知的な相槌をうつ。「列車の旅で何人の男と関係を持てるか競争する」というエピソードに「フライ・フィッシング」という釣りの手法を重ね合わせたり、3人のセックスの相手を、バッハのポリフォニー音楽の低音域、中音域、高音域に重ね合わせたりする。知的というか、単純な卑猥な話に、別のアナロジーを持ち込んで解釈しようとしていくわけだ。

 セックスについて、ジョーは一切の躊躇をしない。社会的タブーを物ともせず、自らの欲するがままに生きていく。快楽のためなら夫も子供も捨てる。一晩で何人もの男と寝る。妻帯者を振り回し、彼の家庭を破壊しても悪びれない。

 

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 世界にある様々なタブーを破ることには、何かしらの痛快さがある。例えば世間の人々が満員電車に乗り込んでいる間、理由もなく無断欠勤をしてやるような痛快さだ。そういうとき、「私はタブーを破り自由になれるだけの強さがある」という自意識が生まれる。おそらくジョーは自らをニンフォマニアックだと呼ぶことで、世界の多数派の人々を軽蔑していたのだ。

 同じタブーを破ったもの同士の間には、ある種の連帯が生まれるが、とても脆い連帯だ。なぜなら彼らの連帯は多数派から身を守るためのもので、いわば消極的な連帯であるから。電車で行為の相手の数を競った友人も、やがてタブーを侵さない恋愛の世界に戻っていく。誰もジョーと本質的なところで繋がれなくなる。絶対の孤独に陥る。

 タブーを破ることで生まれる自由と引き換えに孤独になったジョーは、自らの行動原理であった性的快感を失う(不感症になる)。すると今度はマゾヒスティックな傾向を強める。

 言語の通じない相手、縛られてムチで叩かれるなど、心理的・身体的な不自由を希求するのだ。何者にも縛られたくないと思いながら、むしろ自ら縛られることを求めていく。一見矛盾した行動に思えるが、こうした相容れないはずの二極を同時に持ち合わせることが、人間にはある。例えば『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイが、崇高と卑俗の両方の精神を持つように。身も心も疲弊したジョーは、かつての夫(正確には結婚していたのかわからない、ともかく自分の子供の父親)に銃を向けるが、安全装置を外しておらず、撃つことがかなわない。そしてその男に殴り倒される。こうして物語の冒頭の場面、セリグマンとの出会いに繋がるわけだ。

 セリグマンはその一連の話を聞いた後、眠りについたジョーのベッドに忍び込む。老いた下半身(はっきりいえば情けないペニス)をぶらぶらさせて、ジョーの陰部に擦り付ける。目覚めたジョーは、持っていた銃をセリグマンに向ける。今度は安全装置を外す。拒むジョーに、セリグマンは、

「たくさんの男と寝てきたくせに」

と言い画面は暗転する。そして聞こえる銃声。服を着る衣擦れの音。階段を駆け下りていく足音...。

 

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 「わたしは良き理解者です」みたいなツラしてたセリグマンが、結局はジョーを性的な対象として見ていたこと(というか半ばレイプしようとしていたこと)への失望は深い。この映画を「ポルノだ」と言う人はこの場面をどう解釈しているのだろうか。R18だから、という興味本位で映画館に訪れた人々、DVDをレンタルした人々に撃たれた弾丸ではないか。

 シリアスでどうしようもない問題を抱えた人間に対して、安易に「わかるよ」などと声はかけられない。一方で、自らの弱さを理解してもらおうなどと考えるのも土台無理な話なのか。