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ミュシャ展をみた、『スラブ叙事詩』雑感

 週末、ミュシャ展を見た。例によって恋人とだ。

 スラブ叙事詩という超大作の連作が展示されるらしい。調べてみると、ポスター的・デザイン的な絵じゃなくて、本格的な絵画っぽい絵画らしい。まあ、見てみようじゃないか。おそらく日本にいながらにして、ミュシャのスラブ叙事詩を一挙にまとめて鑑賞できるのは向こう100年はあるまい。

 

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 夢で、ミュシャ展を見た。いや、国立新美術館の中で巨大なミュシャっぽい作品がいくつも並んでいるのを鑑賞する夢をみた、という方が正しいかも。

 で、実際に会場に入ると、人だかりがすごかった。スラブ叙事詩のスケール感には改めて圧倒された。やっぱでかいな。と。例のポスターに使われている怯えている女の人と、中空に浮かぶ多神教の神? と夜空の絵が最初にあって、「いや〜、ミュシャさんキレッキレですな〜」と思った。

 スラブ叙事詩は、ミュシャが晩年にスラブ民族の歴史と精神を描いた20の連作だ。はじめに提示されたのが、まだ土着的な多神教の神(横に雄々しい男と知的そうな女をしたがえている)と、スラブの人間、それと遠景に見える他民族? の影。ああ、民族の歴史を静かに、厳かに語り始める感じだなあ、と楽しみになった。

 叙事詩が時代を経ていくに従い、キリスト教の宗教者をモチーフにした絵が出てきたが、中世から近世にかけてはあまり興味が持てなかった。国家の精神を語る上では欠かせない人物なのだろうが、どうしてもピンと来ないのだ。例えば海外の人間に、空海について説明しても、我々と同じようには素直に受け入れられないのと同じだ。

 ミュシャは、戦禍を描く際にも血や炎を直接描いてはいなかった。どちらかというと、死んでしばらくたった後の死体の、青ざめたような肌を執拗に描いていた。一次大戦の影響云々というキャプションもあった。あの肌の質感にはぞっとさせられた。生きている人間の肌と死体の肌の描き分けが残酷だった。

 連作の最後の方になると、祝祭的な場面や民族の矜持をかなり誇張して、もはや夢と現の入り混じるような画風になって行った。というか、夢と現は最初の絵から混じっていたのだけど、現代に近づくにつれて、その夢の部分の描写がクドく感じられるようになった。我々と似たような服を来た普通の人の表情や肉体を、あまりにも美しく描きすぎている。戦時中のプロパガンダ絵画に似たものを感じた。

 歳をとった人間が国家や、郷土の自然に誇りを感じ始める現象は、これまでも、身の回りでよく目にしてきた。「急に富士山を褒め始めたら年寄りだ」と誰かが行っていた気がする。晩年のミュシャは、それが民族性に帰着したのだろう。画家とかアーティストって、絶対的な知性をもっているひとのように錯覚するけど、そういう人間的な(というか人並みな)部分も、当然あるんだなあ。

 

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 「民族のこと考えるとテンションがあがっちゃうんだね、ミュシャおじさん」と、私だったか、恋人だったか、どちらかが言った。

 

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 スラブ叙事詩を見るだけでも結構な満足度だったけど、そのあとに定番のリトグラフ、『ジスモンダ』とか花の四連作とか、『ヒヤシンス姫』などなどがあり、習作がいくつかあり、いわゆるミュシャっぽいミュシャを見て、大満足。

 人体の曲線の美しさを描くことについては、やっぱり天才。かわいい。女の子の可愛さはいくら誇張しても誇張しすぎることはないけど、民族とか男の気高さみたいなものを誇張されると、わたしは若干「ウッ...」ってなってしまう。

 スラブ叙事詩は、時代が現代に近づくほど「絵」としての良さは失われて、ミュシャの心理状況が如実に見えるようになってくる。わたしの好みは、やっぱりポスターに使われてた星空のやつだな。

 

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 まーた来年も、海の近くで住むことになったらしい。今度は日本海側。