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引っ越しに向けて

 三月の末で現在の住まいを離れ、地元(東北の片田舎)に帰ることになっている。職業上の都合だ。とりあえず来年度は地元で一年間働いて、再来年度はまた、首都圏に戻るつもりでいる。せっかくお金をかけて研修などしてもらうのに、一年で離れるのは申し訳ない気持ちもするが、私には私の都合がある。私の人生なのだから、他人の期待に沿うように生きるのはちょっと意味がない。

 その見通しについて職場の同僚に話したら、「自由すぎるね」と言われた。嫌味で言ったのではないと思う。実際のところ、私の職種でそんなに点々としすぎる人は多くないし、採用の倍率も低くない職業だから、ちょっと珍しいタイプだと思う。そんな生き方を、「芸術系の人だからなあ...」と首を傾げられるのも、もう慣れた。

 

  ※

 

 それで、引っ越しのできる時期がおよそ決まったので、業者を選んでいたのだった。ネットでまとめて見積もりの出せるところに家財道具の量やサイズを入力し、見積もり依頼を出したところ、非常にめんどくさいことが起こった。

 10社ほどの業者から、営業メールが届くようになったのだ。そもそも私がお願いしたのは「見積もり依頼」だったはずなのに、文面にはその金額が全然書かれていない。なんのために家財道具のことを入力させられたのか。

 いずれの会社のメールも、要は「まずは電話で問い合わせてくれ」という内容だった。役に立たないどころか、個人情報だけばら撒かれたようで、嫌な気分になった。あ、一社だけ、その後に金額を出してきたが、それもとても納得いくような価格ではなかった。

 さらに、その一括で見積もりを出したサイトの方から、電話がかかってきた。

「お引っ越しの業者は決まりましたか?」

「いえ、まだ決めかねています(全然役に立たなかった)」

「そうでしたか、ちなみにお引っ越し先でインターネットのご開通の予定はありますか?」

「具体的には考えていませんが、そのつもりです(引っ越しの話ではないのか)」

「弊社からご契約いただくと、2ヶ月分の料金がサービスになる仕組みがありまして」

「すみません、今後いくつかの会社を比較して検討したいと考えていますので、結構です」

「現在お使いの会社が〇〇〇でしたらさらにお得になるご案内だったのですが、いまはどちらの会社...」

引っ越し業社のキュレーションサイトに見せかけて、インターネット回線の営業先を収集している会社だったのだ。なんというか、世の中にはこすい商売もあったものだな、と話を聞きながらうんざりしていた。

「すみませんが、いくつかの会社を比較して検討したいと考えていますので、結構です」

と改めて伝えると、電話口の向こうで明らかに不機嫌になった様子が伺えた。彼女は悪くない。アルバイトか何かなのだろうから。

 

  ※

 

 引っ越し業社から来るメールを迷惑メールフォルダに振り分けて、それから赤帽のサイトにアクセスし、やや大きめの車を保有する事業者に片っ端から電話をした。既に日取りが埋まっている、距離が遠すぎて遠慮したい、などなど、いくつかの業者に断られた。それは仕方ない。

 何軒目かで、かなり格安で引き受けてくれる事業者が見つかった。例のサイトで18万円と言われた引っ越し代金だったが、その事業者は7万円台後半との見積もりを出してきた。全然違うじゃないか。まったくバカバカしくなるぐらい違う。その運転手の人には、地元で美味しいラーメンでもおごってあげたい。チャーシューでもなんでも遠慮せずトッピングしていいよ。

 

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 ダンボールに、今の季節は着ない夏物の服を詰めてみた。DVDや書籍の一部も詰めてみた。部屋の一角にダンボールの匿名的な茶色い空間ができた。できる限りモノは処分していこう。一年後にまた大移動があるのだから。身軽になりたい。

2017/02/28 長い夢

 今日は正午過ぎには仕事が終わり、早く帰って洗濯をしたあと、ベッドに寝転がっていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。目がさめると部屋が暗くなっていて、一瞬何が起こったかわからなかった。その間に長い夢を見たからだ。実際眠っていたのは4時間くらい(昼寝にしては結構寝た)だけど、夢の内容はまる1日くらいあったと思う。

 

  ※

 

 私は恋人と連れ立って電車で出かけ、どこかの岬に来ていた。風が強く、波のしぶきが眼下から吹き上がってきた。風は緑の短い芝も揺らした。風が草の上を吹き渡っていくとき、そこにできる模様は、豊かな毛並みの犬の背を見えない手が撫でているようにも見えた。我々はそこで手を繋いで、しばらくその景色を見ていた。他愛のない話をしながら。

 岸壁の下にもいくつか海面に顔を出した岩場があった。その上に、私は見たくないものを見つけてしまった。裸の男がうつ伏せになって、岩に打ち上げられていた。近くの水が濁っているのを見て出血があることが分かった。それを恋人に見せたくないと思った私は、早くその場から離れたかった。

 しかしどうやってそんなことを伝えればいいのだろう。せっかく長い旅(長かったような気がする)をして辿り着いた場所なのに、滞在時間がわずかというのは、申し訳ないような気がした。とりあえず私は恋人を、海の見えない方向に向かせて、抱きしめてみた。恋人はいつもそうするように目を閉じた。私は海のその死体を見ながら、どうしようか考えていた。

 死体は死体ではなかった。岩の上の裸の男はやおら起き上がり、皮膚の裂けた腹をあらわにし、こちらを見た。私の顔を見て、にやりと笑った。

 

  ※

 

 その後なんとかしてその場を離れたものの、我々の行く先々にその裸の(太っていた)男が現れ、私だけがその男を発見し、その度に適当な理由をつけて他所に移動していった。なぜそこまでして、男の存在をひた隠しにいていたのか分からない。「変な奴がいるんだよ」と言ってしまえば楽だったのかもしれない。

 恋人をつれてどこかのホテルのスイートルームのような部屋まで戻って(実際にはそんなところに泊まれる経済的余裕はないのだが)ようやく一息ついて、ルームサービスで白ワインとグラスを二つ頼んで、ベッドに倒れ込んだ。恋人は私がそこまで疲れている理由が分からないという風だった。身体的には疲れていない。私はあの男の妙な微笑みを(そして奇妙な裸体を)見せたくないと思って、混乱しながら変な気遣いをしていたので疲れたのだ。すぐにでも眠りたかった。

 ホテルの部屋の外は丸の内に似ていた。例の岬からは随分遠くまで戻って来たのだろう。恋人は潮っぽくべたべたした体を洗い流そうとシャワーに入っていた。

 部屋のドアーがノックされたので、ルームサービスだと思って、私は起き上がり扉を開けた。そこに、裸の男がいた。正確には、ホテルマンの格好をした裸だった男がいた。白ワインとグラスを乗せた盆を片手に、嫌な作り笑いをして立っていた。

 

  ※

 

 わたしはそこで大きな叫び声をあげた。自分の声で目を覚ました。日が暮れた自分の部屋だった。お腹が空いていたし、疲れていた。白ワインは誰も用意してなかった。恋人と会うのは明日の夕方だった。

 あ〜。嫌な夢だったので自分一人で抱えていたくないと思って書き記した次第。

たかが世界の終わり、世界が終わるよりもしんどい人生

 先日、たかが世界の終わりを見た。

 わたしは高校の頃に、お芝居の脚本を書いて自分で演出して、芝居にも出るという目立ちたがり学生だったんだけど、そのことを大学に入ってから人に話したら、「グザヴィエ・ドランみたいだね」と言われたことがあった。当時はなんだその聞いたこともない妙な名前は、と思っていた。そう言った友人は、LGBT関係の映像界隈では割と有名らしい若手のアーティストだ。その訳のわからない名前の監督の映画を、先日見た。わたしと恋人がファンであるレア・セドゥお姉様も出演しているというので、何かそういうタイミングだったのだと思う。

 

  ※

 

 主人公のルイは、何かしらの病で余命がわずかで、12年間の時間を経て実家に帰る。彼が具体的になぜ実家に帰らなかったのかは説明されない。ただルイは、劇作家として目覚ましい活躍をしており、同性愛者であるらしい。

 ルイが帰った実家では、母と兄、兄の配偶者、そして妹が待っている。この映画にはそれ以外の人物は映らない(いや、冒頭の飛行機の中でルイに目隠ししていたずらする少年はいるが、それだけだ)。ほとんど自宅の敷地内で物語が進行していく上に、人物の顔をクローズアップするカットが多いので、かなり息がつまる。

 母と妹は、事情を問いたださずにルイを歓待しようとするが、兄がどうにも不機嫌な様子である。彼は実家近くの工場で勤務し、父親のいない家庭の中である種の大黒柱を演じようとしているが、おしゃべりというものに馴染めず、母と妹に対して激昂して怒鳴ることが多い。妻はルイと通じ合えるほど繊細な感情をもつが、意思が薄弱で自らは夫の言うことに従っている。おそらく彼ら夫婦の間には多くの会話は必要ないのだろう。正反対のようにも思えるが、会話が苦手な男と寡黙な女で、お互いを傷つけることなく一緒に居られるのではないか。

 自らの余命について告白を切り出せずにいるルイは、困ったような微笑みと適当な紋切型のフレーズで会話をやり過ごす。母と妹は美しく、才能に溢れるルイに尊敬の感情を隠さない。これに、兄が不快感を爆発させる。嫉妬だ。

 

  ※

 

 ゴッド・ファーザーでは、先代のドンが死んだ後に、三男坊のマイケルがドンの座に就いたが、それを僻んだ次男のフレドが、ファミリーを危険に晒す。フレドには才能が無かった。長男のソニーが死に、そのあとは当然自分が継ぐと思って居たところを、三男にかっさらわれ、しかも職務は末端に近いところをあてがわれる。屈辱だろう。しかし彼はファミリーを仕切る才能はなく、渉外的な活動はうまい。俯瞰してみれば当然の人事だが、それを許せないような人格的な不完全さも、またあって当然だ。

 寡黙に汗水垂らして家を支える兄と、華やかなショービジネスの世界で持て囃され、家をほとんどかえりみず才能豊かな弟。あまりにも違いすぎる二人の間では、共通の話題もなく、話題どころか会話の様式さえ折り合わない。ストレスを感じると兄は叫ぶ。会話終了、主人公苦笑い。その繰り返し。本質的に彼らは変わらない。

 

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 しんどい映画だ。途中、鮮烈な映像と音楽でフラッシュバックする過去の場面が一服の清涼剤となる他は、つねに胃がきりきりするような場面の連続。こまごまとした映像のテクニックは圧倒的だし、俳優の演技も比類ない。が、登場人物たちのバックグラウンドをほとんど説明しないこの脚本と演出では、私も含め、初見の人にはなかなか理解しづらいだろう。「説明を極限まで省略した映画」というコンセプトで作られているのかもしれない。ぜんぜん親切ではないけど、表現の極北としてこれはありだなあ、と思った。翻って、一般のテレビドラマや映画がどれくらい説明に時間を割いているかに気付かされた部分もある。

 

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 正直に言ってまだまだ全貌がつかめない。

 わたしは当然ルイに感情移入すべきものだと思って見始めたが、物語の終盤にふっ、と兄の方に移入の対象がシフトする瞬間があった。また歳をとってから見たい気がする。

 自分の来訪が楔となって家族の関係が壊れてしまうことは、世界の終わり(=自分の死)よりしんどいかもしれない。

 

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 以上、書きなぐりですが、感想。

言葉の価値

 Twitterで日々のあれこれを書き綴っていると、何か長い文章を書くよりも簡単に、お気に入りやリツイートがあって、承認欲求を適度に満たされるので、しっかりした言葉を残しておこうという気力が失われてしまう。

 私のとって表現することは、食べることや眠ることに似ていて、それをやりたいと思っても際限なく続けることができないのだ。身体的・精神的に疲れてくると満足して、途中で放り出してしまう。だからいつも小説を書こう書こうと思って、書き始めて2000字もすると、もうしんどくなる。焼肉を食べたあとしばらく焼肉食べなくてもいいや、と思うように、もう物書きは結構って感じ。

 Twitterはそれはそれで、言葉の瞬発力を鍛える、言語クロッキー的な側面はあるんだけど、どうしても軽い。一茶の句ぐらい軽い。けど私が本当に好きな言葉って、芥川龍之介とか太宰の短篇のような、言葉の切れ味、精度を保ちつつ、読み続けられるようなはっきりした構成がある言葉なんだよなあ(ドストエフスキーぐらいになると、川が流れて海にたどり着く、というようなレベルでなく、地球上のすべての浜に届く波を表現するみたいなレベルだから、ちょっとおそれおおい)。

 

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 もし今まで私が垂れ流して来たツイートとかブログのテキストを、もう少し構成意識を持って、体系的な物語として提示できたら、ある程度価値のある言葉になるんじゃないか、と思った。厭世観、人を愛する気持ち、高すぎる自尊心、ポリティカリーコレクトであろうとして、うまくいかないもどかしさ。あとはなんだろう...。

 このブログで書く言葉も、出し惜しみというわけじゃないけど、生活の些末な手触りについての覚え書き程度にして、魂の本当のところは、ちょっとしまっておくことにしようかな、と思った。

 

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 昨日(2017/02/14)は恋人にチョコレートをもらった! 人生で一番嬉しいバレンタイン。チョコレートにもとめるすべてがあった。愛。

ありえない空想に時間を費やすこと

 もしも宝くじがあたったら、と考えるのは楽しいけれど、「ま、どうせ当たらないんだけどね〜」というオチ、もしくは「そもそも宝くじ買ってもいないんだけどね〜」というオチがつく。具体的にどうやって資産運用しようとか、当たったその日に何をするとか、どこまで人に伝えるべきなのか、とか考えるのが楽しい。歳をとるにつれて、だんだんと細部にリアリティが増してきて、考えるのも飽きない。

 

  ※

 

 私は生活している最中に、宝くじがあたったら、以外にもありえない空想に時間を費やしていることが多い。

 例えば、

・どこでもドアがあったら今の恋人と会いやすくて楽だし、お互いの部屋に寝る前だけそっと入っていって、夜だけでも一緒に寝られるようにしたい

・恋人と過ごしている部屋の外が水没していて、仕事も何もかもなくなって、食料は、しばらくのあいだ、水面に浮かんでいる、近所のスーパーから流れてきたスナック菓子などの密閉された製品ばかりで、気分が乗ったら、水底に沈んでいるワインとかビールとかを、潜水してとりに行くような生活がしたい

・北半球と南半球の空気を入れ替えて適温にできる巨大なダクトパイプをつくる

・身長30cmくらいの小人になって、猫の背中にしがみついて、入り組んだ細いけものみちを探検したい

・煉瓦の古い洋館で爺やと面倒見のいいおばさんのメイドさんに面倒を見られながら、ときどきやってくる客とおいしい食べ物を食べて暮らしたい

などなど。

 

  ※

 

 お風呂に入っているときと、寝る前にそんなことを考えることが多い。一番素敵なのは、家の周りが水没する妄想だなあ。ポテトチップスとかポップコーンの袋がぷかぷか浮かんでいるのを取りに行って、窓のそばで水面を眺めながら食べたい。にんじんやセロリ、キュウリもよく洗って、マヨネーズをつけて食べる。パッケージされた食肉製品もきっと浮かんでくるはず。シャウエッセンは割とレアだから大事に使おう。カップラーメンも浮かんできそう。

 そんな日々がしばらく続くと、漁業関係者や海上自衛隊の船がやってきて、食料を配給するようになる。国会議事堂も水の底。空港の滑走路も水の底。すべてが海上交通の世界。私と恋人は船をつくって、ときどき遠くへ行く。足元がすこし沈んだビル群。渋谷のスクランブル交差点は完全に沈んでいて、ツタヤの二階からようやく入れるぐらい。銀座の歩行者天国も沈んでいるので、自家用のヨットなどを持っているお金持ちがビルに船を繋留してお買い物にくる。電車や車のような交通機関が失われたことで、人々はこれまでの生活が、速度に毒されていたことに気づく。不便さがむしろ心を穏やかにする。みたいな。

 

  ※

 

 まあ、これも妄想なんですけど。考えている間とても幸福じゃない? わたしはこういう幸福を大事にしたい。現実生活に支障をきたしているわけじゃないし、自分の心の奥に広くて深い世界を掘削しているような感じがする。 こういう妄想を人に話して、「それって素敵じゃない?」 って話をするのが好き。

牡蠣尽くしの昨夜

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同僚と牡蠣を食べた。一人で15粒くらいずつ。生牡蠣、焼き牡蠣、その他様々。

美味しいものを食べるのは好きだし、仕事のことについて喋るのも楽しいけれど、本質的に合わない人々なのだな、と感じるところもあった。単一性社会のメリット・デメリット、フランス語っぽく聞こえる日本語の話、映画祭ごとの受賞作品の傾向など、わたしの話したいことも偏ってるとは思うんだけど、なかなか興味を持ってもらえない。あー、話が合う人って本当に貴重なんだなあ。

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今日も平日だけど仕事が休みで、ちょっと用事で都内に出かける。わたしの住む駅の隣が観光地なので、その駅に来るとどっと人が乗り込んで来る。おじいさま、おばあさまたちがけたたましい話し声でやって来る。元気があって大変よろしい。その元気、元気のない若者にも分けてくれないかしら。

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鼻の頭にニキビができた。繰り返し同じ場所にできるから、もしかすると面疔かもしれない。抗生物質の入った市販の塗り薬を塗ったけど、すぐに赤みが引くわけではない。どうして耳の後ろとか目立たないところにできてくれないのかしら。よりによって一番目立つところに。

 

 

映画『タクシードライバー』を見た

 映画『タクシードライバー』をみた。

 DVDを注文するときに、勢いでamazonプライムに入会した。せっかく

プライム会員になったので、今日は映画を観ていた。

 

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 はじめてみたのは中学生の頃だった。中学生の私は、兄に勧められて観た『セブン』や『ユージュアル・サスペクツ』のような、90年代の暗鬱な雰囲気を反映したような映画にハマっていた。多感な時期にあんな暗い映画を見るべきではなかったのだと思う。わたしは案の定、暗い人間になった。暗いし、世の中に対して斜に構えている。反出生主義のようなことを、両親や教師の前でも口走った。嫌な子供だっただろうし、今でもお世辞にも正統派な人間とは言えない。

 暗い映画には系譜がある。監督のインタビューを読みあさっていると、バイオレンスはなんとかという映画、犯人像はなんとかという映画からインスパイアされた、と語っている。そこであげられる映画の名前は、『時計じかけのオレンジ』や『タクシードライバー』、『続・夕陽のガンマン』などだった。そして私の映画の好みは時代を遡った。

 キューブリック、コッポラ、初期のスコセッシなどなど。14歳や15歳の子供がみて理解できる映画ではないような気がするけど、それでも感銘を受けていた。同い年の子供たちが流行りのハリウッドのアクション映画にハマり始める頃、私はアメリカンニューシネマを観ていた。

 

  ※

 

 主人公のトラヴィスは孤独だ。ニューヨークのダウンタウンを夜な夜な運転して周りながら、街への嫌悪感を募らせる。売春、ポン引き、強盗。世間では大統領選が云々と騒いでいるが、新しい大統領がその腐敗を無くせるとは到底思えない。自分を理解してくれる人もいない。手を差し伸べてくれる人も。

 トラヴィスの孤独は、鬱々とした思春期の私の心情に共鳴した。思春期の私は世の中のことを知り始め、たくさんの理不尽、建前、独善的な大人たちに嫌悪感を抱いていた。当然誰も私を助けてくれないし、私も誰にも助けを求めるつもりもなかった。

 誰かを傷つけたかった。筆箱にカッターナイフを忍ばせて、強くなったように感じている。そんな中学生だった。しかし結局何もすることができない。私の心の中では激しい嵐のような感情が渦巻いていたけれど、それが私の行動をどうこうするということはなかった。ただ焦りながら、時間がすぎた。いつのまにか大人になっていた。

 トラヴィスはありえないスケールの妄想をもとに行動する。一介のタクシードライバー風情が、街の腐敗を粛清しようというのだ。無理にきまっている。しかし、世の中に対して暴力をもって働きかけようという彼の気概に、中学生の私は自然に感情移入していた。大統領候補も殺してほしいし、ポン引きも殺してほしい。自分を理解して、愛してくれる人間以外全員殺してしまえ、と思った。果たしてそんな人はなかなかいないのだけど。

 

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 今日あらためてみたみたら、このトラヴィスを「狂気」だと呼ぶひとの気持ちがようやくわかった。評論やらブログの感想やらを読んで(え、どこが狂気なの?) と思っていたのだった。

 自分を傷つけてこない街の人間(いや、卵とか投げつけて来る子供はいたけど、あれは誰でもいいんでしょ)に対して、あんな風に勝手に一人で怒りを募らせて、一目惚れした女の子の職場にまで押しかけて、以前に乗せそうになった客の女の子を「救いたい」とか言ってる。孤独が彼の視野を狭めているのだ。ある程度は共感する部分もあるけど、微笑みをたたえて行動するようになってからは、病の進行を見守るような気持ちが大きくなった。世の中に対して、私がそんなに不満じゃないからだと思う。アメリカンニューシネマは、人生に不満な人間と、満足してる人間とで、全然見方が変わるんだなあ。

 

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 しばらくはアマゾンプライムのビデオで趣味の時間が充実しそうだ。宣伝じゃないよ。