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ミュシャ展をみた、『スラブ叙事詩』雑感

休日 雑感

 週末、ミュシャ展を見た。例によって恋人とだ。

 スラブ叙事詩という超大作の連作が展示されるらしい。調べてみると、ポスター的・デザイン的な絵じゃなくて、本格的な絵画っぽい絵画らしい。まあ、見てみようじゃないか。おそらく日本にいながらにして、ミュシャのスラブ叙事詩を一挙にまとめて鑑賞できるのは向こう100年はあるまい。

 

  ※

 

 夢で、ミュシャ展を見た。いや、国立新美術館の中で巨大なミュシャっぽい作品がいくつも並んでいるのを鑑賞する夢をみた、という方が正しいかも。

 で、実際に会場に入ると、人だかりがすごかった。スラブ叙事詩のスケール感には改めて圧倒された。やっぱでかいな。と。例のポスターに使われている怯えている女の人と、中空に浮かぶ多神教の神? と夜空の絵が最初にあって、「いや〜、ミュシャさんキレッキレですな〜」と思った。

 スラブ叙事詩は、ミュシャが晩年にスラブ民族の歴史と精神を描いた20の連作だ。はじめに提示されたのが、まだ土着的な多神教の神(横に雄々しい男と知的そうな女をしたがえている)と、スラブの人間、それと遠景に見える他民族? の影。ああ、民族の歴史を静かに、厳かに語り始める感じだなあ、と楽しみになった。

 叙事詩が時代を経ていくに従い、キリスト教の宗教者をモチーフにした絵が出てきたが、中世から近世にかけてはあまり興味が持てなかった。国家の精神を語る上では欠かせない人物なのだろうが、どうしてもピンと来ないのだ。例えば海外の人間に、空海について説明しても、我々と同じようには素直に受け入れられないのと同じだ。

 ミュシャは、戦禍を描く際にも血や炎を直接描いてはいなかった。どちらかというと、死んでしばらくたった後の死体の、青ざめたような肌を執拗に描いていた。一次大戦の影響云々というキャプションもあった。あの肌の質感にはぞっとさせられた。生きている人間の肌と死体の肌の描き分けが残酷だった。

 連作の最後の方になると、祝祭的な場面や民族の矜持をかなり誇張して、もはや夢と現の入り混じるような画風になって行った。というか、夢と現は最初の絵から混じっていたのだけど、現代に近づくにつれて、その夢の部分の描写がクドく感じられるようになった。我々と似たような服を来た普通の人の表情や肉体を、あまりにも美しく描きすぎている。戦時中のプロパガンダ絵画に似たものを感じた。

 歳をとった人間が国家や、郷土の自然に誇りを感じ始める現象は、これまでも、身の回りでよく目にしてきた。「急に富士山を褒め始めたら年寄りだ」と誰かが行っていた気がする。晩年のミュシャは、それが民族性に帰着したのだろう。画家とかアーティストって、絶対的な知性をもっているひとのように錯覚するけど、そういう人間的な(というか人並みな)部分も、当然あるんだなあ。

 

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 「民族のこと考えるとテンションがあがっちゃうんだね、ミュシャおじさん」と、私だったか、恋人だったか、どちらかが言った。

 

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 スラブ叙事詩を見るだけでも結構な満足度だったけど、そのあとに定番のリトグラフ、『ジスモンダ』とか花の四連作とか、『ヒヤシンス姫』などなどがあり、習作がいくつかあり、いわゆるミュシャっぽいミュシャを見て、大満足。

 人体の曲線の美しさを描くことについては、やっぱり天才。かわいい。女の子の可愛さはいくら誇張しても誇張しすぎることはないけど、民族とか男の気高さみたいなものを誇張されると、わたしは若干「ウッ...」ってなってしまう。

 スラブ叙事詩は、時代が現代に近づくほど「絵」としての良さは失われて、ミュシャの心理状況が如実に見えるようになってくる。わたしの好みは、やっぱりポスターに使われてた星空のやつだな。

 

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 まーた来年も、海の近くで住むことになったらしい。今度は日本海側。

わかりあえなさ

テレビ 仕事 休日 雑感

 先日、視聴者参加での討論をする番組に出た。

 あるシリアスなテーマに、いくつかの立場から意見を出し合った。わたしはちょっと年齢が上の視点から喋っていた。

 で、その参加者の一人が、実は芸能活動(というかコスプレとかyoutubeで踊って見たとかを投稿している)をしていることが分かった。要は番組を足がかりにして知名度を少しでも上げようとしていたのだろう。その人物の界隈の人々が「○○○ちゃんテレビ出てる〜」などとtwitterでつぶやいているのをいくつか見かけた。彼らは番組の中で語られている問題の本質にはさらさら興味が無さそうだった。「テレビに出る」ということに憧れを抱いているようだった。

 

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 その参加者は、ある問題を起こした側の人物で、後悔しているが当時は気づかなかった、という旨の主張をしていた。が、実際にその人物のtwitterアカウントを特定してみると、未だにその人間性は変わっていないように見えた。要は、彼女は自分の言葉と行動が伴っていないタイプの人間なのだろう。

 人間は変わらない。他者の内面を変えようなんて驕った考えなのかもしれない。でも、明らかに真摯さに欠ける人間に対して、真摯さを要求してはいけないだろうか。しかし、真摯さということを理解するのにも、一定の知性が必要だし...こんなにも人に対して絶望したのは久しぶりなので、もやもやする。

 

  ※

 

 社会にあるイデオロギー間の摩擦は、分かり合えなさと、分かろうとしない思考停止からきていると思う。決めつけや、軽蔑、デマゴーグ...自分と自分の界隈の考えを絶対視してしまうバイアス...。

 割と信用できるな〜と思ってた人がガチガチの政治的思想への共感を強要してきたとき、(はぁ、あなたも分かりあおうとしない人か)とがっかりしてしまったこともある。同調すれば生きやすいのだろうが、私はそういうとき、苦笑いして「そんなものですかねぇ」と言うしかできない。大人になればなるほど、その苦笑いをつかう機会も増えていくのだろう。

 

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 分かり合えなさに絶望してしまいそうになるけど、そこで絶望したら、私もわかりあえない人になっちゃうので、ときどき愚痴を言いながらだけど、真摯でありつづけたい。

 あ〜猫撫でたい。

映画の魔法、ラ・ラ・ランド

 ラ・ラ・ランドを観た。

 予告編をはじめてみたときから頭にぴーんときていた。鮮やかな衣装の色彩、メロディアスで元気の出る音楽、そしてセッションの監督だというので、もう、脳内麻薬がどばどば出るタイプのミュージカルだということが予想できた。ストーリー云々はわからないけど、脳内麻薬どばどば感は約束されている。観ないと言う選択肢はなかった。

 

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 以下、ネタバレあります。

 

  ※

 

 物語の冒頭、L.A(歌を口ずさむlaとロサンゼルスのL.Aがかかってるのね)への高速道路の渋滞の車の数々を写す場面。若者たちが不機嫌そうに音楽を聴いている。その中の一人の女性が歌い始める。ああ、始まった! とワクワクする。語られているのは、将来の夢と自らの状況のギャップを感じながらも、あくまでその美しい夢を全肯定しようという内容の歌詞だ。車の中から若者たちが飛び出し、渋滞するロサンゼルスへのハイウェイ(つまり、ハリウッドスターへの道の暗示なのだと思う)で笑顔で踊る。人生賛美だ! ミュージカルは人生賛美じゃなくっちゃ! 

 わたしはこの場面、冒頭五分ぐらいだけど、もうぼろぼろ泣いてしまった。体が自然にリズムをとってしまった、とかじゃなく、全身がびくびくするぐらい泣いた。人生を肯定されている気がした。

 ミアは女優を目指しながら、ロサンゼルスでアルバイトをしている。プリウスに乗って通勤である。多分かなり裕福な家庭の出だろう。大学の法学部? を中退して、女優を目指しながらアルバイトしてられるような後ろ盾がある。同じく女優を目指す若い女友達らと、パーティやオーディションに繰り出してはチャンスを掴もうとしているミアは、行く先々でジャズピアニストのセバスチャン(セブ)に出会う。

 一方セブは、レストランのピアニストとして演奏はしているが、純粋なジャズへの情熱と経済的な都合の折り合いの間で悩んでいる。ミアと比べれば後ろ盾はないが、演奏者としての技術は確かなものを持っている。やや懐古主義的な趣味から、現代の音楽シーンに不満タラタラ、生きづらそうなタイプである(ちなみに私もそんなところが多いにあるので、彼に感情移入した)。

 ミアとセブは二人とも夢がある。女優としての成功、ピアニストとして店を持つこと。それぞれの夢と経済的な安定性はトレードオフの関係で、どちらか一方しか得られない、という前提が端々ではっきり描かれる。

 

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 どうでもいいんだけど、すでに成功したスポーツ選手とかが、「あきらめなければ夢は叶う」っていうのあれは生存バイアスだよね。夢を叶えた人同士の世界に生きていれば、それはそういう気持ちにもなるのかもしれないけど、世の中の果たしてどれぐらいの人が、ほんとうの「夢」を叶えているのだろう? 現実的な妥協線を見つけて、そこに長くいるうちに、自らを納得させる論理を拵えていくのが多くの人間たちじゃないか? ああいう講演会に、いったいなんの意味があるのだろう。夢を持つことは大変結構。夢が叶わなかったときに、発言に責任を負ってくれるのか、妙な講演するスポーツ選手たち。

 

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 二人は恋人同士、互いを精神的支柱にして、ちょっと夢の方へ背伸びし始める。ロサンゼルスの街にはスターがあふれ、映画の撮影も行われている。ミアの内側に、何かのタイミング次第で自分もスターになれるのではないか、という期待が膨らむ。オーディションに落ちてもセブがいる。

 二人のデートの場面はこの映画の中で最もうっとりとするシーン。天文台の大理石の建物の中を歩き、プラネタリウムの部屋にたどり着いてからが特に最高。星々の間を踊りながら進んでいく。恋する気持ちってこんな感じよね。私は踊れないけど、恋する気持ちを踊りと歌であらわしたら、こうなるんだろうな、って感じ。ああ、思い出すだけで美しすぎて涙がでそう。

 

  ※

 

 セブの立場が見ていて辛かった。自分が本来目指しているところの古いスタイルのジャズではなく、打ち込み音源を交えたジャズ"風味"のバンドに加入すると、思いがけずそれがヒットし、多忙ながらも金銭的な余裕を得る。将来のためのある種の我慢の期間だと考えていたのかもしれない。それをミアがなじった。

 セブは、夢と現実の絶妙な妥協点を選んでいると思う。それに対して、「女優の道を諦めて弁護士にでもなろっかなァ〜(意訳)」みたいに言ってるミアちゃんになじられるのは耐えられないよ。ミアとの、それからの長い生活のことも想定していたからこそ、そういう道を選んだかもしれないっていうのに。他にもいくつかの人間関係の摩擦、そして遠距離の生活によって、ふたりの仲はとぎれる。

 

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 突如、五年後、というテロップがあらわれ、ミアに子供が生まれていることがわかる。そして女優として成功しているらしいことが分かってくる。夫と連れ立って、ふたたびL.Aへのハイウェイに乗り込むが、これも渋滞している。その渋滞を避けるために脇道に入ったところで、セブの開いたジャズの店に偶然入る。ああ、お互いそれぞれの夢は叶えているんだ。

 席に着いたミアと、ステージに立ったセブは目が合う。五年という歳月がすぎ、お互いの夢を叶えたものの、二人の間に恋の魔法がもどってくる。

 もし二人が別れずに暮らしていたら...もし二人の夢をともに叶えていたら...もし、今日この店に連れ立ってくるのが二人だったら...もし二人の間に子供が生まれていたら...変えることのできない過去に、「もし」をつけて夢を見る。音楽が終わるとき、その夢も終わる。でも彼らは本来的な目標としての夢は叶えている。女優、自分の店をもつこと。人生のある時期に連れ添い、互いを励ましあったからこそ今がある。恋愛の成就を最上の幸福と設定しないところが、とてもビターだ。それまで語られた夢が明るく美しかったからこそ、そこにリアルな人生の苦味がある。「でもそれでいいじゃないか」とセブの笑顔が語っているように見えた。

 

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 突然の五年後、というテロップと、その期間のあまりの説明の無さに一瞬困惑したが、監督は「もしも...」の苦味を表現したかったのかと思うと、まあ当然のことかしら。

 最近つねに『アデル、ブルーは熱い色』のことを考えてるんだけど、あの映画と同じで、物語の序盤や中盤に狂おしいほどの情熱を提示しておいて、最後にその頃のことを思う場面を挿入するの、ほんとずるい。ずるいけど好き。

 人生賛美だけど、物語の最後にちょっと変化球というか、人生のうまくいかなさもちょっと含んでいるのがミュージカルとしては新鮮だった。いい映画だった。

 

引っ越しに向けて

平日 雑感

 三月の末で現在の住まいを離れ、地元(東北の片田舎)に帰ることになっている。職業上の都合だ。とりあえず来年度は地元で一年間働いて、再来年度はまた、首都圏に戻るつもりでいる。せっかくお金をかけて研修などしてもらうのに、一年で離れるのは申し訳ない気持ちもするが、私には私の都合がある。私の人生なのだから、他人の期待に沿うように生きるのはちょっと意味がない。

 その見通しについて職場の同僚に話したら、「自由すぎるね」と言われた。嫌味で言ったのではないと思う。実際のところ、私の職種でそんなに点々としすぎる人は多くないし、採用の倍率も低くない職業だから、ちょっと珍しいタイプだと思う。そんな生き方を、「芸術系の人だからなあ...」と首を傾げられるのも、もう慣れた。

 

  ※

 

 それで、引っ越しのできる時期がおよそ決まったので、業者を選んでいたのだった。ネットでまとめて見積もりの出せるところに家財道具の量やサイズを入力し、見積もり依頼を出したところ、非常にめんどくさいことが起こった。

 10社ほどの業者から、営業メールが届くようになったのだ。そもそも私がお願いしたのは「見積もり依頼」だったはずなのに、文面にはその金額が全然書かれていない。なんのために家財道具のことを入力させられたのか。

 いずれの会社のメールも、要は「まずは電話で問い合わせてくれ」という内容だった。役に立たないどころか、個人情報だけばら撒かれたようで、嫌な気分になった。あ、一社だけ、その後に金額を出してきたが、それもとても納得いくような価格ではなかった。

 さらに、その一括で見積もりを出したサイトの方から、電話がかかってきた。

「お引っ越しの業者は決まりましたか?」

「いえ、まだ決めかねています(全然役に立たなかった)」

「そうでしたか、ちなみにお引っ越し先でインターネットのご開通の予定はありますか?」

「具体的には考えていませんが、そのつもりです(引っ越しの話ではないのか)」

「弊社からご契約いただくと、2ヶ月分の料金がサービスになる仕組みがありまして」

「すみません、今後いくつかの会社を比較して検討したいと考えていますので、結構です」

「現在お使いの会社が〇〇〇でしたらさらにお得になるご案内だったのですが、いまはどちらの会社...」

引っ越し業社のキュレーションサイトに見せかけて、インターネット回線の営業先を収集している会社だったのだ。なんというか、世の中にはこすい商売もあったものだな、と話を聞きながらうんざりしていた。

「すみませんが、いくつかの会社を比較して検討したいと考えていますので、結構です」

と改めて伝えると、電話口の向こうで明らかに不機嫌になった様子が伺えた。彼女は悪くない。アルバイトか何かなのだろうから。

 

  ※

 

 引っ越し業社から来るメールを迷惑メールフォルダに振り分けて、それから赤帽のサイトにアクセスし、やや大きめの車を保有する事業者に片っ端から電話をした。既に日取りが埋まっている、距離が遠すぎて遠慮したい、などなど、いくつかの業者に断られた。それは仕方ない。

 何軒目かで、かなり格安で引き受けてくれる事業者が見つかった。例のサイトで18万円と言われた引っ越し代金だったが、その事業者は7万円台後半との見積もりを出してきた。全然違うじゃないか。まったくバカバカしくなるぐらい違う。その運転手の人には、地元で美味しいラーメンでもおごってあげたい。チャーシューでもなんでも遠慮せずトッピングしていいよ。

 

  ※

 

 ダンボールに、今の季節は着ない夏物の服を詰めてみた。DVDや書籍の一部も詰めてみた。部屋の一角にダンボールの匿名的な茶色い空間ができた。できる限りモノは処分していこう。一年後にまた大移動があるのだから。身軽になりたい。

2017/02/28 長い夢

 今日は正午過ぎには仕事が終わり、早く帰って洗濯をしたあと、ベッドに寝転がっていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。目がさめると部屋が暗くなっていて、一瞬何が起こったかわからなかった。その間に長い夢を見たからだ。実際眠っていたのは4時間くらい(昼寝にしては結構寝た)だけど、夢の内容はまる1日くらいあったと思う。

 

  ※

 

 私は恋人と連れ立って電車で出かけ、どこかの岬に来ていた。風が強く、波のしぶきが眼下から吹き上がってきた。風は緑の短い芝も揺らした。風が草の上を吹き渡っていくとき、そこにできる模様は、豊かな毛並みの犬の背を見えない手が撫でているようにも見えた。我々はそこで手を繋いで、しばらくその景色を見ていた。他愛のない話をしながら。

 岸壁の下にもいくつか海面に顔を出した岩場があった。その上に、私は見たくないものを見つけてしまった。裸の男がうつ伏せになって、岩に打ち上げられていた。近くの水が濁っているのを見て出血があることが分かった。それを恋人に見せたくないと思った私は、早くその場から離れたかった。

 しかしどうやってそんなことを伝えればいいのだろう。せっかく長い旅(長かったような気がする)をして辿り着いた場所なのに、滞在時間がわずかというのは、申し訳ないような気がした。とりあえず私は恋人を、海の見えない方向に向かせて、抱きしめてみた。恋人はいつもそうするように目を閉じた。私は海のその死体を見ながら、どうしようか考えていた。

 死体は死体ではなかった。岩の上の裸の男はやおら起き上がり、皮膚の裂けた腹をあらわにし、こちらを見た。私の顔を見て、にやりと笑った。

 

  ※

 

 その後なんとかしてその場を離れたものの、我々の行く先々にその裸の(太っていた)男が現れ、私だけがその男を発見し、その度に適当な理由をつけて他所に移動していった。なぜそこまでして、男の存在をひた隠しにいていたのか分からない。「変な奴がいるんだよ」と言ってしまえば楽だったのかもしれない。

 恋人をつれてどこかのホテルのスイートルームのような部屋まで戻って(実際にはそんなところに泊まれる経済的余裕はないのだが)ようやく一息ついて、ルームサービスで白ワインとグラスを二つ頼んで、ベッドに倒れ込んだ。恋人は私がそこまで疲れている理由が分からないという風だった。身体的には疲れていない。私はあの男の妙な微笑みを(そして奇妙な裸体を)見せたくないと思って、混乱しながら変な気遣いをしていたので疲れたのだ。すぐにでも眠りたかった。

 ホテルの部屋の外は丸の内に似ていた。例の岬からは随分遠くまで戻って来たのだろう。恋人は潮っぽくべたべたした体を洗い流そうとシャワーに入っていた。

 部屋のドアーがノックされたので、ルームサービスだと思って、私は起き上がり扉を開けた。そこに、裸の男がいた。正確には、ホテルマンの格好をした裸だった男がいた。白ワインとグラスを乗せた盆を片手に、嫌な作り笑いをして立っていた。

 

  ※

 

 わたしはそこで大きな叫び声をあげた。自分の声で目を覚ました。日が暮れた自分の部屋だった。お腹が空いていたし、疲れていた。白ワインは誰も用意してなかった。恋人と会うのは明日の夕方だった。

 あ〜。嫌な夢だったので自分一人で抱えていたくないと思って書き記した次第。

たかが世界の終わり、世界が終わるよりもしんどい人生

雑感 映画 休日

 先日、たかが世界の終わりを見た。

 わたしは高校の頃に、お芝居の脚本を書いて自分で演出して、芝居にも出るという目立ちたがり学生だったんだけど、そのことを大学に入ってから人に話したら、「グザヴィエ・ドランみたいだね」と言われたことがあった。当時はなんだその聞いたこともない妙な名前は、と思っていた。そう言った友人は、LGBT関係の映像界隈では割と有名らしい若手のアーティストだ。その訳のわからない名前の監督の映画を、先日見た。わたしと恋人がファンであるレア・セドゥお姉様も出演しているというので、何かそういうタイミングだったのだと思う。

 

  ※

 

 主人公のルイは、何かしらの病で余命がわずかで、12年間の時間を経て実家に帰る。彼が具体的になぜ実家に帰らなかったのかは説明されない。ただルイは、劇作家として目覚ましい活躍をしており、同性愛者であるらしい。

 ルイが帰った実家では、母と兄、兄の配偶者、そして妹が待っている。この映画にはそれ以外の人物は映らない(いや、冒頭の飛行機の中でルイに目隠ししていたずらする少年はいるが、それだけだ)。ほとんど自宅の敷地内で物語が進行していく上に、人物の顔をクローズアップするカットが多いので、かなり息がつまる。

 母と妹は、事情を問いたださずにルイを歓待しようとするが、兄がどうにも不機嫌な様子である。彼は実家近くの工場で勤務し、父親のいない家庭の中である種の大黒柱を演じようとしているが、おしゃべりというものに馴染めず、母と妹に対して激昂して怒鳴ることが多い。妻はルイと通じ合えるほど繊細な感情をもつが、意思が薄弱で自らは夫の言うことに従っている。おそらく彼ら夫婦の間には多くの会話は必要ないのだろう。正反対のようにも思えるが、会話が苦手な男と寡黙な女で、お互いを傷つけることなく一緒に居られるのではないか。

 自らの余命について告白を切り出せずにいるルイは、困ったような微笑みと適当な紋切型のフレーズで会話をやり過ごす。母と妹は美しく、才能に溢れるルイに尊敬の感情を隠さない。これに、兄が不快感を爆発させる。嫉妬だ。

 

  ※

 

 ゴッド・ファーザーでは、先代のドンが死んだ後に、三男坊のマイケルがドンの座に就いたが、それを僻んだ次男のフレドが、ファミリーを危険に晒す。フレドには才能が無かった。長男のソニーが死に、そのあとは当然自分が継ぐと思って居たところを、三男にかっさらわれ、しかも職務は末端に近いところをあてがわれる。屈辱だろう。しかし彼はファミリーを仕切る才能はなく、渉外的な活動はうまい。俯瞰してみれば当然の人事だが、それを許せないような人格的な不完全さも、またあって当然だ。

 寡黙に汗水垂らして家を支える兄と、華やかなショービジネスの世界で持て囃され、家をほとんどかえりみず才能豊かな弟。あまりにも違いすぎる二人の間では、共通の話題もなく、話題どころか会話の様式さえ折り合わない。ストレスを感じると兄は叫ぶ。会話終了、主人公苦笑い。その繰り返し。本質的に彼らは変わらない。

 

  ※

 

 しんどい映画だ。途中、鮮烈な映像と音楽でフラッシュバックする過去の場面が一服の清涼剤となる他は、つねに胃がきりきりするような場面の連続。こまごまとした映像のテクニックは圧倒的だし、俳優の演技も比類ない。が、登場人物たちのバックグラウンドをほとんど説明しないこの脚本と演出では、私も含め、初見の人にはなかなか理解しづらいだろう。「説明を極限まで省略した映画」というコンセプトで作られているのかもしれない。ぜんぜん親切ではないけど、表現の極北としてこれはありだなあ、と思った。翻って、一般のテレビドラマや映画がどれくらい説明に時間を割いているかに気付かされた部分もある。

 

  ※

 

 正直に言ってまだまだ全貌がつかめない。

 わたしは当然ルイに感情移入すべきものだと思って見始めたが、物語の終盤にふっ、と兄の方に移入の対象がシフトする瞬間があった。また歳をとってから見たい気がする。

 自分の来訪が楔となって家族の関係が壊れてしまうことは、世界の終わり(=自分の死)よりしんどいかもしれない。

 

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 以上、書きなぐりですが、感想。

言葉の価値

平日 雑感

 Twitterで日々のあれこれを書き綴っていると、何か長い文章を書くよりも簡単に、お気に入りやリツイートがあって、承認欲求を適度に満たされるので、しっかりした言葉を残しておこうという気力が失われてしまう。

 私のとって表現することは、食べることや眠ることに似ていて、それをやりたいと思っても際限なく続けることができないのだ。身体的・精神的に疲れてくると満足して、途中で放り出してしまう。だからいつも小説を書こう書こうと思って、書き始めて2000字もすると、もうしんどくなる。焼肉を食べたあとしばらく焼肉食べなくてもいいや、と思うように、もう物書きは結構って感じ。

 Twitterはそれはそれで、言葉の瞬発力を鍛える、言語クロッキー的な側面はあるんだけど、どうしても軽い。一茶の句ぐらい軽い。けど私が本当に好きな言葉って、芥川龍之介とか太宰の短篇のような、言葉の切れ味、精度を保ちつつ、読み続けられるようなはっきりした構成がある言葉なんだよなあ(ドストエフスキーぐらいになると、川が流れて海にたどり着く、というようなレベルでなく、地球上のすべての浜に届く波を表現するみたいなレベルだから、ちょっとおそれおおい)。

 

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 もし今まで私が垂れ流して来たツイートとかブログのテキストを、もう少し構成意識を持って、体系的な物語として提示できたら、ある程度価値のある言葉になるんじゃないか、と思った。厭世観、人を愛する気持ち、高すぎる自尊心、ポリティカリーコレクトであろうとして、うまくいかないもどかしさ。あとはなんだろう...。

 このブログで書く言葉も、出し惜しみというわけじゃないけど、生活の些末な手触りについての覚え書き程度にして、魂の本当のところは、ちょっとしまっておくことにしようかな、と思った。

 

  ※

 

 昨日(2017/02/14)は恋人にチョコレートをもらった! 人生で一番嬉しいバレンタイン。チョコレートにもとめるすべてがあった。愛。