職場から

 今日も今日とて出勤して、職場にいるわけですが。

 この三日間の実働時間は1時間未満だけど、とりあえずその場には居なきゃいけないタイプの仕事である。拘束時間は9時から15時くらい。まあ、これ以上言うと何の職種かバレそうだ(いや、とっくに皆さんお察しなのかもしれない)。

 ともかく一人で居られる部屋にこもって、ときどき仕事の現場に顔を出す感じでやっている。その最中にこうして記事を書いているのだ。

 

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 休日に6時間拘束されるとしたら、一般的にどれくらいの報酬があって然るべきだろう? 1時間1000円で6000円くらいだろうか。あるいは休日出勤という点を踏まえてもっと割り増しで、9000円ぐらい?

 実のところ、私が休日出勤して受け取れる報酬はわずか3000円である。これは私がまだ若いから、とかではない。年配の同僚も3000円しか貰わない。

 一方で、拘束時間は長いけども、こうしてブログなど書いてコーヒーも飲めちゃうような軽い労働であるという点も、考慮されなければならないだろう。いずれにしても睡眠時間やプライベートを削って、意に反する形で休日に出勤しているのだ。せめて5000円ぐらい貰わなければとてもモチベーションは上がらない。

 

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 最近ハマっている料理の話でもしよう。

 業務用スーパーが近所にある。そこで冷凍の豚バラブロックを買い込んで、しょっちゅう煮豚にしている。

 大量のお湯と少しの酒(白ワインでやることが多いが、芋焼酎がうまくなるらしい)で、冷凍の塊肉を40分かけて煮込む。この時点ではまだ味がついていない。40分ほどしたら、ジップロックの中に醤油・砂糖・みりん・生姜を適当にまぜたつけダレの中に煮豚を熱いまま入れて、あとは一晩冷蔵庫で寝かせる。

 価格と作業時間に対して、料理のクオリティや得られる幸福度が非常にコスパが良いのだ。薄切りにしてごはんやラーメンの上にのせたり、小さな賽の目に切ってチャーハンに入れるのが至福である。また、このつけダレは豚の旨味が滲み出ていて、チャーハンを作るときの味付けや、引き続きつけダレとして煮卵づくりに利用すると、ちょっと並みの旨さではない。

 で、例の業務用スーパーでは、冷凍の中華麺も売っている。それを大量の湯で溶かして湯切りし、醤油・オイスターソース・ごま油をそれぞれ大さじ1弱のタレに絡めると、簡易な油そばのようなものができる。それに酢やすりごま、油と相性のいい緑黄色野菜、ネギ、そして上の煮豚などを適当な分量で混ぜれば、これまた至福である。ちょっとカロリーと塩分が高すぎる気もするが、ジャンクさが大事なのだ、油そばだから。

 

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 また少し仕事の現場に顔を出しに行きます。

嵐のような日々

 一月以上の間を空けてしまった。八月の中旬から九月の初めにかけて、大きな仕事の山場があり、そのために日々帰ってはバタンキュー、食事も栄養バランスよりカロリー! みたいなひどい有様で、鼻の頭のニキビが、できてはつぶれてを繰り返した。ともかく久しぶりに落ち着いた日々? が戻ってきたわけだ。とはいえ、この三連休も毎日出勤することになっているのだが。

 嵐のような日々の最中、よく考えていたのはアンガーマネジメント(怒る前に深呼吸したりとか)なんかするより、怒鳴るなり何なりして、「自分はこれくらい辛いのだ」と表現した方が、周囲の人も気を使ってくれるのではないか? ということだ。結果的に一度も怒鳴ったり、感情を露骨に表すことなく仕事を進めることができた。

 

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 人事はわりと適当に行われているし、仕事のできない人でも働いていけるのだ、と思った。そして仕事のできる人には仕事が集中していくのだ。人口が大都市に集中するから大都市が便利になり、さらに一層人口が大都市に移動していくのと同じようなことだ。

 

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 あたふたしたり、意味不明な資料とにらめっこしながら、遅くまで職場に残っていたとき、たった一人、いつも声をかけてくる同僚がいた。

「先の見えない仕事で大変でしょうけど、わたしでできることがあれば、なんでも言ってください」

とその同僚は言った。彼には家庭があり(まだ幼い三つ子の女の子たちのパパであるという)、仕事の分量も多く、信頼が厚い。相談しやすい雰囲気もある。しかし、彼のデスクの上にうず高く積まれた仕事の山(文字通り山のようなのだ)を見ると、何かを頼むのも憚られた。それよりもむしろ、暇そうにあくびしたり、コーヒーを飲みながらおしゃべりしてる人、新聞など読んでいる人に頼みたいものだった。

「まあ、なんとかやってみます。経験値がすごいです。はぐれメタルですよ、この仕事は」と私は言った。彼はゲラゲラ笑ってくれた。そしてときどき、菓子パンを差し入れしてくれるようになった。わたしはその菓子パンを四十秒ぐらいで食べ終えた。でもその四十秒がけっこう救いになっていたのだと思う。

 

信じられないくらい前時代

 さきほど職場の研修を終えてきた。

 二泊三日、エアコンもない山中の宿泊施設で、声に出すだけで歯が浮くような、美しい理想を描き語らせられる研修だった。もちろん役に立つ部分も無くはない。しかし、山の中で、洗濯もできず、飲酒も禁じられた環境で学ぶべきことではないのでは? と思う。

 いま、たまった洗濯物を洗濯機に突っ込んで、24度のエアコンの下で、ようやく人権を取り戻したような心地になっている。

 数時間前まで過ごしていたあの特殊な空間、あれはなんだったのだろう? とふりかえる。例えばグループ活動、雨の降る中の山登り、22時の消灯(見回りさえくるのだ!)、感動の強要...。わたしはこうやって一人でコンピュータの前に座ったり、近すぎない距離の人間関係の中にいるのが心地いいのだ。

 「協働すること」の美しさに酔っているのではないかしら? わたしはそういう協力とか、団結とか、絆という言葉にアレルギー反応のようにムズムズしてしまう。本質的に人間は一人なのだよ。分かり合えたつもりになることが、私は嫌なのです。感動したくないのです。

 人の周りにたちこめている湯気のような熱を、わたしは避けて生きていたいのに、それを無理やりくっつけ合わせて、「仲良くなれた!」なんて騒いでいる。私のストレスは見過ごされ、愛想笑いばかりが上手になっていった。もしかすると私以外のひとびともそうなのかもしれない。冷めた気持ちを抱えながら、前時代的な熱っぽさを演じて愛想笑いしている人も、きっと居たのだろう。

ブログが書けない!

 今年度に入ってから、このひと月、そしてこれからのひと月が最も忙しい時期になりそうだ。年度の前半に仕事が集中しており、私の主担当のイベントが九月の頭に控えている。先の見えない仕事に、精神的な負担を感じる。

 最近の食事は、前の投稿のような野菜のグリルをつくるほどの時間もないので、簡単なスパゲッティとか飼ってきて食べることが多くなっている。あまりよろしくないけど、料理をする時間と体力を睡眠に充てたい。ブログを書く時間も睡眠に充てたい。

 Twitterの方でも長々としたツイートは減った。ねこ、と心の中に浮かんできたことばをそのまま吟味も何もせず書き込んで送信する。脈絡もない。ほんとうにつらいとき、それしか言うことがない。「つらい」とか「しんどい」とか「死にたい」という気持ちを言葉にすると、むしろその言葉が自分への呪いになる。「ねこ」は祈りだ。ねこ。ねこ。ああねこかわいい。

 過労自殺、100時間で過労死ラインならば私の職種の人々は結構な割合で超えるぞ。働き方改革はやくしてくれ。土日は休みで17時には職場を出る。17時に終わるような仕事量にする。にゃんにゃん。あ〜猫飼いたい。恋人と猫飼って都内で暮らしたい。宝くじ当てて億ション買お。

野菜のグリル

 野菜のグリルにはまっている。昨年度住んでいた神奈川県の、とあるフレンチレストランで食べた鎌倉野菜のグリルが美味しかったので、なんとか再現できないものかと思い、何度もトライしている。

 

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 玉ねぎやカブなど糖質を含んだ根菜と、アスパラ、ナス、パプリカなどの体積のある野菜を合わせる。オリーブオイルを気持ち多めに敷いて、中火で蓋をしてじっくり動かさずに焼いていく。途中、焦げてないかと心配になるが、あまり触りすぎると良い焦げ目がつかない。これがなかなか難しい。

 

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 ここでひとつ、例のレストランのシェフに教わった小技で、パスタの茹で汁を途中加えるというのがある。パスタの茹で汁の中には塩と小麦粉の成分が溶けている。塩は、浸透圧の関係で野菜の水分や糖分を内側から引き出してくる働きをする。小麦粉と野菜のタンパク質が、にじみ出てきた野菜の糖質とからまって、これまた良い焦げ目をつくる。タンパク質+糖質を高温で調理すると「メイラード反応」といって、香り・旨味が格段に増すらしい。例えばブラウンソースや、タレがよくからまった肉などがそうだ。

 

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 そんなこんなで、じっくり時間をかけて火を通す。できあがった野菜は、慣用句的な意味じゃなく、本当に甘くなっている。皿に盛り付けて、もこみちがやるように少し高いところから塩を振ってやる(パフォーマンスでやっているのではない。そうすると全体に均等にかかっていいのだ)。付け合わせにホロホロに煮込んだ鶏肉など添えると最高だ。このようにして、わたしは冷蔵庫で冷えている酒に手を伸ばす。炭水化物は控えるから許してほしい。

カイコ

 

 アパートの玄関のドアの外の、6cmほどの段差の部分に、カイコが一匹、繭を作ろうとしていた。珍しいので五分ほど、じっと見ていた。しかしそのカイコの吐く糸は丸い形にはならず、ただ吐き出されて堆積するばかりだった。このままここで糸を吐かれ続けても嫌だな、と思い、靴で隅の方に押しのけてやった。靴にカイコの体が当たったとき、ぽてっとした柔らかい重さを感じた。生き物の重さだ。ちょっと悪いことをしたな、と思って出勤した。

 帰ってみると、カイコはその日の朝に押しのけたままの場所で横たわっていた。近づいていくと、気がついたようにはっと上体をくねって起き上がらせ、また横たわった。まだ生きているのだ。こんなコンクリートの上で何も飲まず食わずで生きていたのだ。

 そしてその翌朝も、まだカイコは生きていた。わたしの革靴が、床に当たって音が出た瞬間に上体を起こす。ちょっと可愛らしくも思う。けれど餌をやろうなどとは思わない。わたしは虫にはさわれない。帰宅したときには、わたしの靴音がしても上体を起こさなかったが、わずかに体をぴくりと動かした。もうじき死ぬのだな、と思った。

 翌朝、やはりカイコは動かなかった。玄関の近くにあった枯葉のくずを、カイコの近くに靴で集めてやった。腹をすかせているだけかもしれないから。まあ、しかし水までやるような手間をかけるほどの親切心は働かなかった。月に一度ほどやってくる管理会社の人間が箒で掃いてチリトリに入れて捨ててくれるだろうと思った。

 が、その日、帰宅してみると、カイコは誰かに踏み潰されていた。正確には、踏み殺された痕跡が残っていた。おそらく同じアパートに住む子供がそうしたのだと思う。風が吹き込んだのか、枯葉のくずは無くなっていた。カイコの居たコンクリートの上には薄茶色のシミだけが残っていた。一見、そのシミだけを見れば、機械油か泥のようなものが垂れたあとのようだ。これから毎朝、そのシミをみるにつけ、ほんの少しだけの罪悪感...罪悪感というより、「ここはわたしが蹴って押しのけたカイコの死に場所だ」という認識がやってくる。でもそれもやがて忘れる。

音楽

 車に乗るようになってからは、CDで音楽を聴くようになった。

 持っているアルバムは宇多田ヒカルを一通り、マイケルジャクソンのベスト盤、ADELEの19ぐらいだ。中古のCDを買いに行きたいとも思う。ワーグナーなど聴きながら出勤してみたい。

 

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 音楽を聴いている間は憂鬱にならなくていい。いや、実は、憂鬱なときは音楽さえ聴くことができていないだけかもしれない。けれど、ここ最近音楽を(割と大きめな音で)聴くことで、いいメンタルの状態を保っている。

 長いドライブの最中、日が沈んだ後の少しの間、空がまだ明るく微妙な色合いを残しているのを見ながら、マイケルジャクソンの『You are not alone』が流れてきたときはうっとりとした心地だった。

 またある日、夜中に気まぐれに30分ほどドライブに出かけて、宇多田ヒカルの『荒野の狼』を聴いたら、そのまま海岸線を突っ走って、現実からどこまでも遠くに逃げられるような気がした。