野菜のグリル

 野菜のグリルにはまっている。昨年度住んでいた神奈川県の、とあるフレンチレストランで食べた鎌倉野菜のグリルが美味しかったので、なんとか再現できないものかと思い、何度もトライしている。

 

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 玉ねぎやカブなど糖質を含んだ根菜と、アスパラ、ナス、パプリカなどの体積のある野菜を合わせる。オリーブオイルを気持ち多めに敷いて、中火で蓋をしてじっくり動かさずに焼いていく。途中、焦げてないかと心配になるが、あまり触りすぎると良い焦げ目がつかない。これがなかなか難しい。

 

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 ここでひとつ、例のレストランのシェフに教わった小技で、パスタの茹で汁を途中加えるというのがある。パスタの茹で汁の中には塩と小麦粉の成分が溶けている。塩は、浸透圧の関係で野菜の水分や糖分を内側から引き出してくる働きをする。小麦粉と野菜のタンパク質が、にじみ出てきた野菜の糖質とからまって、これまた良い焦げ目をつくる。タンパク質+糖質を高温で調理すると「メイラード反応」といって、香り・旨味が格段に増すらしい。例えばブラウンソースや、タレがよくからまった肉などがそうだ。

 

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 そんなこんなで、じっくり時間をかけて火を通す。できあがった野菜は、慣用句的な意味じゃなく、本当に甘くなっている。皿に盛り付けて、もこみちがやるように少し高いところから塩を振ってやる(パフォーマンスでやっているのではない。そうすると全体に均等にかかっていいのだ)。付け合わせにホロホロに煮込んだ鶏肉など添えると最高だ。このようにして、わたしは冷蔵庫で冷えている酒に手を伸ばす。炭水化物は控えるから許してほしい。

カイコ

 

 アパートの玄関のドアの外の、6cmほどの段差の部分に、カイコが一匹、繭を作ろうとしていた。珍しいので五分ほど、じっと見ていた。しかしそのカイコの吐く糸は丸い形にはならず、ただ吐き出されて堆積するばかりだった。このままここで糸を吐かれ続けても嫌だな、と思い、靴で隅の方に押しのけてやった。靴にカイコの体が当たったとき、ぽてっとした柔らかい重さを感じた。生き物の重さだ。ちょっと悪いことをしたな、と思って出勤した。

 帰ってみると、カイコはその日の朝に押しのけたままの場所で横たわっていた。近づいていくと、気がついたようにはっと上体をくねって起き上がらせ、また横たわった。まだ生きているのだ。こんなコンクリートの上で何も飲まず食わずで生きていたのだ。

 そしてその翌朝も、まだカイコは生きていた。わたしの革靴が、床に当たって音が出た瞬間に上体を起こす。ちょっと可愛らしくも思う。けれど餌をやろうなどとは思わない。わたしは虫にはさわれない。帰宅したときには、わたしの靴音がしても上体を起こさなかったが、わずかに体をぴくりと動かした。もうじき死ぬのだな、と思った。

 翌朝、やはりカイコは動かなかった。玄関の近くにあった枯葉のくずを、カイコの近くに靴で集めてやった。腹をすかせているだけかもしれないから。まあ、しかし水までやるような手間をかけるほどの親切心は働かなかった。月に一度ほどやってくる管理会社の人間が箒で掃いてチリトリに入れて捨ててくれるだろうと思った。

 が、その日、帰宅してみると、カイコは誰かに踏み潰されていた。正確には、踏み殺された痕跡が残っていた。おそらく同じアパートに住む子供がそうしたのだと思う。風が吹き込んだのか、枯葉のくずは無くなっていた。カイコの居たコンクリートの上には薄茶色のシミだけが残っていた。一見、そのシミだけを見れば、機械油か泥のようなものが垂れたあとのようだ。これから毎朝、そのシミをみるにつけ、ほんの少しだけの罪悪感...罪悪感というより、「ここはわたしが蹴って押しのけたカイコの死に場所だ」という認識がやってくる。でもそれもやがて忘れる。

音楽

 車に乗るようになってからは、CDで音楽を聴くようになった。

 持っているアルバムは宇多田ヒカルを一通り、マイケルジャクソンのベスト盤、ADELEの19ぐらいだ。中古のCDを買いに行きたいとも思う。ワーグナーなど聴きながら出勤してみたい。

 

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 音楽を聴いている間は憂鬱にならなくていい。いや、実は、憂鬱なときは音楽さえ聴くことができていないだけかもしれない。けれど、ここ最近音楽を(割と大きめな音で)聴くことで、いいメンタルの状態を保っている。

 長いドライブの最中、日が沈んだ後の少しの間、空がまだ明るく微妙な色合いを残しているのを見ながら、マイケルジャクソンの『You are not alone』が流れてきたときはうっとりとした心地だった。

 またある日、夜中に気まぐれに30分ほどドライブに出かけて、宇多田ヒカルの『荒野の狼』を聴いたら、そのまま海岸線を突っ走って、現実からどこまでも遠くに逃げられるような気がした。

『ニンフォマニアック』、タブーと孤独

 映画『ニンフォマニアック』を見た。ラース・フォン・トリアー監督といえば鬱、みたいな認識でいたけど、案の定深刻で、観るものに突きつけるような映画だった。ポルノまがいのアートとか、アート風味のポルノなどと揶揄されることもあるようだけど、わたしは性を扱ったのは一つの手段であって、性という側面を通して人間の本質を描いていると感じた。

 以下ネタバレあります。

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 ニンフォマニアック...色情狂と訳される。

 主人公のジョーは自らを色情狂と呼び、道で倒れているところで助けられた中年男のセリグマンに自らの人生(主に性にまつわるエピソード)を8章立てで語っていく。

 ジョーは幼少早くより性的な快楽に目覚め、浴室の床の上で「カエルごっこ」というマスターベーションをしたり、近所に住む男に「処女を奪ってと頼んだら迷惑?」などと言い寄ったりしたという。それぞれのエピソードは、誰しも一つは持って居そうな性の芽生えの出来事としてありそうなものだ。しかし、畳み掛けるように飛び出るエピソードの数々に、どうやら並大抵の人生でないことがうかがわれてくる。

 セリグマンは博識な童貞(...博識な童貞ってことば、なかなか素敵だな)で、彼女の話に知的な相槌をうつ。「列車の旅で何人の男と関係を持てるか競争する」というエピソードに「フライ・フィッシング」という釣りの手法を重ね合わせたり、3人のセックスの相手を、バッハのポリフォニー音楽の低音域、中音域、高音域に重ね合わせたりする。知的というか、単純な卑猥な話に、別のアナロジーを持ち込んで解釈しようとしていくわけだ。

 セックスについて、ジョーは一切の躊躇をしない。社会的タブーを物ともせず、自らの欲するがままに生きていく。快楽のためなら夫も子供も捨てる。一晩で何人もの男と寝る。妻帯者を振り回し、彼の家庭を破壊しても悪びれない。

 

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 世界にある様々なタブーを破ることには、何かしらの痛快さがある。例えば世間の人々が満員電車に乗り込んでいる間、理由もなく無断欠勤をしてやるような痛快さだ。そういうとき、「私はタブーを破り自由になれるだけの強さがある」という自意識が生まれる。おそらくジョーは自らをニンフォマニアックだと呼ぶことで、世界の多数派の人々を軽蔑していたのだ。

 同じタブーを破ったもの同士の間には、ある種の連帯が生まれるが、とても脆い連帯だ。なぜなら彼らの連帯は多数派から身を守るためのもので、いわば消極的な連帯であるから。電車で行為の相手の数を競った友人も、やがてタブーを侵さない恋愛の世界に戻っていく。誰もジョーと本質的なところで繋がれなくなる。絶対の孤独に陥る。

 タブーを破ることで生まれる自由と引き換えに孤独になったジョーは、自らの行動原理であった性的快感を失う(不感症になる)。すると今度はマゾヒスティックな傾向を強める。

 言語の通じない相手、縛られてムチで叩かれるなど、心理的・身体的な不自由を希求するのだ。何者にも縛られたくないと思いながら、むしろ自ら縛られることを求めていく。一見矛盾した行動に思えるが、こうした相容れないはずの二極を同時に持ち合わせることが、人間にはある。例えば『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイが、崇高と卑俗の両方の精神を持つように。身も心も疲弊したジョーは、かつての夫(正確には結婚していたのかわからない、ともかく自分の子供の父親)に銃を向けるが、安全装置を外しておらず、撃つことがかなわない。そしてその男に殴り倒される。こうして物語の冒頭の場面、セリグマンとの出会いに繋がるわけだ。

 セリグマンはその一連の話を聞いた後、眠りについたジョーのベッドに忍び込む。老いた下半身(はっきりいえば情けないペニス)をぶらぶらさせて、ジョーの陰部に擦り付ける。目覚めたジョーは、持っていた銃をセリグマンに向ける。今度は安全装置を外す。拒むジョーに、セリグマンは、

「たくさんの男と寝てきたくせに」

と言い画面は暗転する。そして聞こえる銃声。服を着る衣擦れの音。階段を駆け下りていく足音...。

 

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 「わたしは良き理解者です」みたいなツラしてたセリグマンが、結局はジョーを性的な対象として見ていたこと(というか半ばレイプしようとしていたこと)への失望は深い。この映画を「ポルノだ」と言う人はこの場面をどう解釈しているのだろうか。R18だから、という興味本位で映画館に訪れた人々、DVDをレンタルした人々に撃たれた弾丸ではないか。

 シリアスでどうしようもない問題を抱えた人間に対して、安易に「わかるよ」などと声はかけられない。一方で、自らの弱さを理解してもらおうなどと考えるのも土台無理な話なのか。

2017/04/24

 眠い。布団から出られないでいる。夕飯を先ほど食べた。玉ねぎ、人参、ニラ、ナス、ひき肉、ソーセージ、キャベツを一センチ角に切って、中華だしと少しの水で煮込んだものを食べた。野菜をこんなに食べられたのは良いことだ。

 洗濯機がまわりおわって、アラーム音が鳴ってから、もう1時間近く経つ。良い加減干さなければならない。眠い。

 今朝は早起きだった。朝6時頃に家を出なければならなかったのだ。職場でも、例の独り言おじさんに、「眠そうだね、鯖の目をしている」と言われた。鯖の目という言葉がわからなかったので調べたら、要は死んだ魚のような目、疲れた生気のない目ということらしい。あのねえ、そういうことズケズケ人に向かって言うのはどうなんだい。確かに生気のない目はしてるけど。

 ねこ...ねこ撫でたい。肯定ペンギンに褒められたい。恋人と飲酒したりカフェに行ったりしたい...。恋人と会えるまでもう少し。生きるぞ...。まずは布団から出て洗濯物を干すぞ...。

 「公開する」ボタンを押したら、布団をはね除ける...。

花見

 職場のすぐ近くに、桜の名所百選に選ばれている公園がある。そこに先日行ってきた。深夜だったがまだ歩いている若者が居た。夜のひんやりとした空気に、湿度と花の香りが混ざって色気がある夜だった。

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独り言を言う人々

 今の職場に、常に独り言を喋っている人が二人いる。それと、住んでいるアパートの近所の中華料理屋の店主も、独り言を言いながら厨房に立っていた。

 職場の独り言おじさんAは、私のデスクの正面にいるので、自分のデスクにいるかぎりその人のぶつくさを聞くことになる。それが、ずっと独り言なら良いものの、ときどき私に向かって何かを訪ねたり声をかけてきたりするので、困る。常に耳を傾け続けることを要求されているような感じがする。それがもう50歳前後? のベテランの人なので、どうしても気を使うのだ。邪険にするのも悪い気がして。

 それで、わたしは職場内の別のデスク(この部屋には私一人しか来ない)に逃げ込むことが増えた。サボっているというわけではなく、単に場所を移して仕事をしているだけだ。まあ、雑用などを頼まれないのも便利なのだが。

 その一人の部屋からは、遠い山並みが未だ雪で白く染まっているのと、眼下に桜の蕾がいよいよひらこうと膨らんでいるのが、同時に見渡せる。ああ、春だ。そして窓を開けると生暖かい空気が吹き込んで来る。建物の中よりも暖かい風だ。近くには車の通りの多い道路もない。

 何年も、何十年も前からそこにあったようなデスク、棚、仕事に関する様々な道具などを、先日濡れ雑巾で拭いた。表面から埃が拭い取られると、日に焼けて色あせてはいるものの、なかなか居心地のいい空間になった。こんな快適な部屋ができてしまって、本来いるべきオフィスに戻るのが億劫になった。とはいえ、そこで一日中過ごすわけにはいかない。20分ほどそこで深呼吸したりストレッチしたり、事務的な書類の処理をしてから、独り言おじさんA、と、狭すぎるパーソナルスペースが待っているオフィスに戻っていくのだ。

 

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 職場のもう一人、独り言おばさまBは、上品な落ち着いた服を着こなしていて、感じのいい人なのだが、いささかコミュニケーションのスタイルが独特だ。何も声をかけずすっと忍び寄ってきて、こちらが気付くと、自分の伝えるべき伝達事項をずらーーーっと並べ立てて、慌てて返事をすると、さっさと去っていってしまうのだ。

 その人は、私の一人の部屋よりもずっと広い、ちょっと特別な部屋で一日中働いている。長い間、何年もそういう働き方をする職種なのだ。もしかするとその寂しさが彼女の独り言の癖を生んだのかもしれない。今日、その女性の仕事場に用があって、ノックして入ってみると、私がそばに寄っていくまでずっと、独り言を続けていた。用件を伝えて、部屋を出て戸をしめたあと、ちょっと耳をそばだててみると、また何かを喋り始めた。ああ、不思議なものだなあ。

 

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 一人で過ごしすぎるのもよくないかも、と思った。

 最近、youtubeでお笑いの動画を見ることが増えた。暗い部屋で、ノートパソコンのブルーライトに照らされながら、ひとりで「へへへっ」と笑うのである。そして眠くなったら画面をぱたりと閉じる。

 そのあとの無音が寂しい。ぎゅっと抱きしめる恋人か、すり寄って来る猫か、さもなくば大きなぬいぐるみかが、隣にいてほしい。まだ水曜日だ。このブログを公開したら、すぐにノートパソコンを閉じる。ぱたり。